生徒作品

作品 令和元年10月28日 浅井まこ 

  花器の形を生ける

花材、  豆柿、 紫トルコキキョウ、 黄ミニバラ、 イタドリ、

生徒作品は Amebaブログ にて多数展示しています

富安晃苑作品

 岡崎信用金庫上地支店ロビイー作品、

花材、  ハイビスカス、 ゆうかり、 オレンジスカシユリ、 紫孔雀草、 黄小菊、

レデイ―スクリニック、ロビー生け花

  花材、 フウセントウワタ、 赤、黄菊、 紫孔雀草、

花材、 はらん 赤バラ、 白、紫トルコキキョウ、

天空え

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縮尺100分の1に表す、模型のプランです
構想を模型にして、植物素材を集めた

個展のメーンです。 紅炉一点雪

紅炉一点雪 禅と老子

「紅炉一点雪」こうろいってんのゆき
正しくは「紅炉上一転雪」

だが、上を抜いて 「紅炉一点雪」ともいう。
いけばな草月流富安晃苑個展 社中展 (2003年10月11日12日13日、岡崎市)の主題であり、元来は禅門第一の書といわれる『碧巌録(へきがんろく)』にでてくる句(禅語)である。

紅炉の紅と雪の白が鮮やかなコントラストをなすこの句は、あかあかと燃えている暖炉上の一片の雪がたちまち消えてしまうように、無情なもの、はかないもののたとえと考えられる。

宇宙の悠久の時の流れと比べれば、人生もまた紅炉上の一転の雪であろう。だが、この句ただ無常、はかなさ、寂しさをいたずらに強調するものではない。
そのはかなさ、寂しさの底に、永遠の生命が息ついているのである。
炉辺で茶を喫して降る雪を眺める風情(閑寂風趣)に見立てて、茶室の掛け軸として用いられるこの句は禅語としては ”少しも跡形をととめない”という意味があるのだ。いかなる難行苦行をしても、悟ればその難行苦行の跡形を少しも止めないのである。

そこで炉を仏心に、雪を煩悩にたとえて、火が盛んに燃えている炉の上に一片の雪を置いてもたちまち消えてしまうと同じように、仏心が光り輝いていれば、一点の迷妄などたちまち焼き尽くされ、浄化されて、少しも跡形を残さないという解釈がなされている。

これに対して、道(水、真理)の一つの現れを雪とし、水が変化自在に雪となり、雨となり、水蒸気になるように、道そのものも変化自在なものでという解釈もある。これは老子の「道の道とすべきは常の道に非ず」に通じる自由自在な心境である。  

「人生65年を振り返り、好きな生け花で過去、現在、未来を表現」された富安晃苑個展では、周囲に人間の誕生から往生まで、そして自相世界への螺旋的次元上昇の物語が配され、中央に一期一会の茶席が用意され、はかなきものの底にある永遠の生命、宇宙が表現されていた。

そこに、いけばな草月流、茶道表千家の修行の跡形さえ止めない意すらあるだろうか。

なお,この句は 『碧巌録』のほか、朱子の『続近思録』にも、「親子は己に克 つ、紅炉一点雪の如し」とある。
孔門十哲の一人で徳業第一とといわれた顔子(名は回、字は子渕)が貧苦の中で、私心や邪念をはらいのけ、愈愈自適の生活をしたことをいったのだ。

さて、「紅炉上一転雪」に通じる老子の考えをここで示しておきたい。「善行は(てっせき)無く、善言は(かたく)無く」(老子道徳経第二十七章)。真実の善なる行いは、車が道を行くのにその跡を止めないように、自分の心に善行をしたという誇りもないし、人々のめに華やかに知られるようなあり方でもない。同様に、善い言葉も、その言葉が少しでも時分を傷つけ、人を損なうようなものであってならない。このように老子は一切のとらわれを嫌う聖者である。

自分のしたどんな善いことにも、他人のしたどんな悪いことにも、少しも想いが止まらず、すべてはみ仏(神様)が善いようにして下さると信じ切っている。それでいて、少しの善いことをおろそかにせず、少しの悪いことをもけしさろうと努める。

そんな自由人として、生き生きと生きたいものである。
鹿毛 俊孝

友人略歴 
鹿毛 俊孝(かげとしたか)
1950年 九州大学理学部物理学科卒業
日本マーケッティング(現船井総合研究所)を経て、
85年M&I経営開発を設立
経営コンサルタントとして多方面で活躍している。
著書「優良中堅企業への道」「きもの業界融合への道」その他多数。

稽古作品

内田美沙
曲線の構成
花材、茶色ニュウサイラン、赤バラ、黄ミニバラ

曲線の流動感、動きが有っていいですね。曲線のラインがもう少しキレイになると素敵です。

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生徒作品

枯ヤシの実、オンジュウム、キバラ


首藤和実
私の花
パンパスグラス、あかばんさす、茶色ニュウサイラン

村松愛子
花材
グリーンアナベル、スモークツリー、トクサ、黒着色雑木

成瀬純江
花材
スモークグラス

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紅炉一点雪

人生65年節目の表現を植物素材による、過去、現在、未来を高炉一点雪として表す。


富安晃苑、人生の節目65歳を境として、自営業を後継者に引継ぎしまして3年間の準備をかけました。

会場の設定、プランの構想、あらゆる分野のエンターテイメントを参考にと、海外で先ずは世界の文化の中心ニューヨークで1週間、ソーホーのレンガ倉庫街、メトロポリタン美術館、二十世紀美術館、いろいろな作家の作品に触れた。

その後ラスベガスのエンターテイメント、ナイアガラ爆風、グランドキャニオンの大きさと規模迫力に圧倒されました。

ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、イギリス、オーストラリア、中国、韓国、グアム、台湾、ハワイ、各地で、いろいろな、文化に触れてきました。

国内では、まず日本の伝統文化でもある、名古屋に立派な能舞台があり、お茶のお友達で仕手の家元をされているお友達に、能のシンプルな良さを気づかしていただきました。

歌舞伎、歌劇、宝塚劇場公演,などなど、初めての世界もありましたが、一番感動したのは、東京浅草の劇場で見た映画 ハリーポッターの賢者の石 でした。
空に舞い上がるハリーポッター にヒントを得まして、私の描く輪廻転生の世界を、過去現在未来、として、未来を天空に舞い上がる構成ができました。
過去は母親の体内から、育まれ長いトンネルから、心音を聞きながら、ピアノの生演奏による音の世界から今生のマバユイばかりの光の世界えと、今回の主題となる、江炉一点雪、と題して現在の思いを、畳2枚分の書に題して、私の好きな花、植物素材に変えて表現しました。

会場中央に竹で組んだお茶室、お客様をおもてなしをする、空間を作りまして、今生の極楽を表現しました。3日間で用意したお菓子が三日目の昼前になくなり、大変な盛況に感激しました。
有り難うございました。

縦1mx4mの書を400枚書きました。

個展のメインです 紅炉一点雪

無彩色による、天空のかなたに、舞い上がり、来世の想像の世界に、延々と果てしなく、

2003年 富安晃苑個展  岡崎市勤労福祉会館

母親の心音が聞こえる、道、


富安晃苑手書きの案内状です。

2003年10月11日~13日  会場 岡崎市勤労福祉会館

色の世界(今世)竹でお茶室制作、極楽浄土の世界


直径2m、幅1m無彩色 来世の三世の世界え舞い上がり、制作中

勤労福祉会館 結婚式会場

藤つる25m10本、柿の木10本、つるうめもどき、 トンネルです。

母の心音が聞こえる道。

 紅炉一点雪

これは正確には「紅炉上一点雪」です。しかしよく「上」が省略されて書かれることが多いようです。

意味は真っ赤に燃えさかった暖炉の上に一片の雪が舞い落ちる。すると雪は一舜のうちに溶けてしまいます。実にはかないものです。

考えてみれば、私たちの命も、この雪のようなものではないでしょうか。何十年生きられるか知りませんが、長い宇宙の時間から見ればほんの一瞬のこと、まさに紅炉上の一点の雪のごときそんざいです。
しかし、この誠にはかない一瞬の存在が、実は他の何物にもかえがたい、尊い、尊い存在なのであります。
瞬時にして消えてしまう弱々しい自己でわあるが、しかしこの自己なくしては、宇宙も地球もそんざいするいみがありません。
燃えさかる暖炉は、一舜のうちに消え去る雪のためにあるとすら言えます。ですからこの句の主眼は「紅炉」ではなく、「一点雪」にある。私はそう思います。

また、燃えさかる暖炉の赤と、冷たい雪の白さという色彩の対比の妙、その鮮やかさ。色彩的な意味でも、まことに味わい深い、美しい句です。
そしてこの句を禅的に解釈すれば、また別な意味になります。すなわち【碧巌録】には、「刑棘林透納僧家 紅炉上如一点雪」とあります。
修行僧が刑棘林、すなわちイバラの林を通って歩むといえども、紅炉上の一点の雪のように、まったくその痕跡を残さないということ。
傷だらけ血だらけになって出てくるというのは、修行が足りない証拠。どんなに苦しい道を通ってきても、跡形すら見せない、それがほんとうの修行の到達点である。ということなのです。
ですから、いかにも私は修行してきましたというのは駄目だというのです。修行中は、紅炉上の一点の雪のごとく身を轍底的に焼尽くす、しかし次の瞬間には、まったく痕跡さえ残さずにけろりとしている。というのでなければならないのです。

お茶の世界でもそうではないでしょうか。
いわゆる「茶人くささ」ほど嫌なものはありません。いかにも私は茶人ですという雰囲気の茶人がいますが、まだまだという気がします。茶人もまた、修行の跡を残さずに、淡淡とした心境でいなければなりません。